忘れてはいけない罰

今回は中学3年生に進学しした時のおはなしをしたいです。私の友達が私と一緒に仲良くしていたせいで後に仲間外れになってしまいます。私から友達を引き離した子も結局はその時は受験生で丁度思春期の年齢です。その子もお友達作るのに必死だったのかもですが、私は当時自分の事を棚に上げてしばらくの間怒り恨みました。それと同時にまた自分が嫌いになりました。私と関わってなければその子達は普通に他の子と仲良くしていたかもしれないのですから。。

 

進学して3年生になりましたが、幼稚園からの子と小学生5年、6年生の時の子2人とクラスメイトになります。幼稚園の時の子に私は嬉しくなって話しかけます。そうしたらその子から意外な言葉を聞きます。私「Sさん久しぶり。私きのこだよ。覚えてる?懐かしいね」Sさん優しい笑顔で少しお話してから「きのこさん。昔私きのこさんに虐められてたの憶えている?」と。。私は⁉。。とびっくりしました。確かに1回喧嘩した記憶が残っているけれどそれが虐めになっていたことに私は自己嫌悪に襲われました。(そうかぁ。私は本当に小さい頃から我が儘で嫌な奴だったんだな。。)今出来るのは心から謝ることだ。とSさんに「ごめんね。正直覚えていないんだ。でもそれでSさんを傷つけてしまっていたのなら本当にごめんね」。。そうしたらSさんは笑顔で「いいよ。」と許してくれたのです。私は本当にその子に対して感謝してお礼を伝えました。(本当に私のくだらない虐めなんかでSさんが心を閉ざしてしまわないで良かった。ありがとう)と心の中でつぶやきました。そんな中席が近く小学5と6年の頃に一緒のクラスだったAさんともまた打ち解けておはなししました。そして隣の席にいた男の子S君。その子は初めてでしたが仲良くなります。もう一人Nさんも初めてで仲良くなりました。けどそんなに弱い私自身が直ぐに変われるかと言えば変わるわけもなくて。。通ってから直ぐに1日休んでしまいます。理由はもう体力も勉強もとてもではないけれど追い付けなかったのです。中学になっても独学で勉強してると母親は「そんなやり方じゃ覚えない」と言うしじゃあどうすれば良いのか聞くと「辞典調べなさい」位でもちろん辞典もみているし教科書の大事なところをノートにまとめていたのですがそれ以上は教えてもくれないし塾も家庭教師も通わせてくれないで私もイライラのピークに達していました。今でも理解できないです。確かに当時色にこだわって綺麗に見やすく書いていたので、そんな暇あったら殴り書きでもいいから書くスピードあげろとその時の私にも突っ込みたいのですがそれすら教えてくれずただヤジを飛ばすだけでしたからね。。スタミナも急激に太った私に体育の授業はもう息切れが激しく、皆が普通に軽くランニングする前のウォーニングアップで走っているのに対して私は気持ち悪くなっていたのです。当然私は(ちょっと待って。。無理!)。。とすぐに休みました。休んだ次の日Nさんの態度がよそよそしくなります。そして隣にいたS君と普通に話していたらその日の少し経った時にSさん「お願いがあるんだけれど私実はS君の事好きなんだ。だからS君と話さないでほしいんだ。」といわれ、私は(そうなんだ。好きならそうだね。私だからと言ってやっぱり他の子と話しているの見たら嫌だよな。。)と思って私は「分かったよ」と面白くはないけれど承諾してS君と話さなくなりました。

 

それから休んでばかりいたら女の子のSさんが心配して家に来てくれて「どうして学校休むの?」と聞いてきました。私は「勉強が分からないんだ。」。。そういうとその子は学校休んでまで家に来てくれて勉強を教えてくれました。休みながらでもたまに行ってAさんとも話していると、またNさんは「私この席の近辺でAさんだけしか仲良くないんだ。だから私の友達とらないでほしい。」私「。。。」その後Aさんに聞いてみると。。勿論Aさんだって毎日来てくれて3年になって普通にお洒落漂わせている子の方がいいだろう答えは「Nさんと仲良くなりたい。Nさんがいてくれれば良い」と言っていたので正直NさんとAさんとでは性格合わないようなと思うけれど、寂しいけれど私に何か言う権利はないと思い話さなくなり私の無断欠勤が更に酷くなります。その時唯一私に対して優しくしてくれてたSさんの気持ちも分からないで。。。

 

そしてS君は久しぶりに私が学校に行ったとき1人で孤立していました。Sさんも次第に心を閉ざしてしまって私ががっこうに行った時も途中で早退します。Sさんがその時に教室から出て行って少ししたらクラスメイトの殆どが歓声を上げて他の男の子なんかは拍手までしていて。。それをみて私は次の日からほぼ学校にはいかなくなりました。

 

今回はここまでにします。私が3年生になったとき心を改めて学校毎日ちゃんと通っていれば男の子も女の子も学校ちゃんと通えていたかもと思うと、今のが心が痛いし申し訳なさ過ぎてもう会えないけれど、会う機会があっても勇気もなく無責任に謝ることが出来ないです。もう一人は次でお話ししますが通っていても一人になってしまってました。私はこの時のことを一生かけて自分がした過ちの罰として胸に刻んで忘れないようにしたいです。身勝手な我が儘な行動で他人の人生も変えてしまうのだと。。

全て新しくしたかったけど出来ないから逃げた。そして腐った。

今回は前回の続きの中学2年生の半ばの頃の話をしたいです。当時父親の所に行けば姉と一緒の学校も行かず転校できるものだとてっきり思っていました。当時の記憶は少し抜けていて忘れかけているのですが、確か転校もしていいと聞いていたような気がしたのですが、父親もそこまで私が思い込んでいると思ってなかったから転校しても良いと言ったのか、私が思い込んだだけで実際は違っていたのかはおぼえていないのです。けれど転校して姉と離れて暮らせばまたお友達も出来るのではと思ってしまってました。実際もし転校できたとしてもこの時の私は逃げ癖がついてしまい、頑張ることに無気力になっていて遊ぶことしか考えれていなかったので結局は同じような結果だったと今は思います。

 

父親の運転する借りてきたトラックに私の荷物を積んで父親が当時住み込んでいた寮に向かいます。着いてから私の部屋を用意されて一瞬浮かれてしまいます。さっきまでの寂しさがすぐに消えて自由なお部屋が作れると、これで姉に勝手に入られずに物も荒らされず取り上げられなくてすむと思うと幸せな気持ちになりました。寮自体は古くてお風呂なしなので銭湯になります。キッチンも共同だし洗濯も共同です。でもそんなことは正直苦でもなんでもなかったです。けれど直ぐにその夢は崩れさります。父親に「。。でいつ転校出来るの?」と聞くと父親は「転校はしなくていいよ。ここからきのこの通っている学校に通えばいいよ」と言われて一気にテンションが落ちました。それと「家具もこれで十分だよ」と。。そこにあったのは本当にオシャレのかけらもないタンスがポツンとあっただけ。現実逃避したかった私は夢を一気に崩れ去りました。抵抗はもちろんしたけれど聞き入れてくれるはずもなく更に距離の遠くなった嫌な学校に通う気なんて起きるはずもなく殆どいかなくなりました。

 

でも当時中学2年生の時のクラスメイトは今でもその時も一番好きでした。けれど学校の授業はもう全くついていけなくなっていたしまた暴力やいじめを私自身がしてしまうのではと、または再び私自身を否定されて嫌われてしまうのではないか。もちろん頭痛も酷かったし一回学校で頭痛持つと横になりたいくらいに痛くてたまらず起き上がるのもつらかったです。好きなクラスメイトだったから素の自分を出して嫌われたくなかったのです。後は姉のいる学校には通いたくなかった。なまけ癖がついてしまった。。。色々ですね。結局頑張らないで逃げていた私に対してそのクラスメイト達にも嫌われてしまいましたがそれでもみんな本当は優しい子が多かったと思っています。一生懸命に学校生活を送っている子達から見れば怠けてたまに通う私を見たらどうしても腹はたってしまいますよね。分かっていてもやっぱり受け入れられないと、自分が悪いと思っていても悲しかったですね。

 

あまりに学校行かな過ぎて父親にもさじを投げられて戻されてしまいます(笑)荷物を母親の所にまた送って母親の元に戻った時姉は私に「戻ってこなくてよかったのに」と普通に言い放ちます。私は(好きで戻った訳ではないよ。お前の顔なんか見たくもなっかたよ)と心の中でつぶやきました。父親の所に行ったとき食費を結構渡されていたのでゲーム欲しさに偏食になってしまってプラス14㎏ふとりました。44㎏からおよそ58㎏

迄。少し悩んだけれどその時はそんなに美意識強くなくて軽めの悩み程度でした。そして元の生活に戻ってそのまま進学します。

 

今回はここまでにしたいです。よく私は逃げていいと言っているけれど逃げ方を間違えるとどんどん道が複雑化してしまって逃げきれなくなってしまうと今は感じています。逃げても良いですが心を腐らすのではなく自分でどうすれば良いのかよく考えてそれでも分からなかったら色んな人に相談をして逃げ道を作るのは大事だと思います。私は今まで一部の人にしか相談出来ませんでした。パソコンなんてなかったし、ポケベルの時代でSNSとかは一般市民にはなかったかもでしたし、一部の人を信じなければよかったと思いました。それが家族達です。私は今亡きおじいちゃん、おばあちゃん以外の身内と元夫達は信じれなくなっていたし今はもっと他の人たちに早く相談していれば良かった。。と実感しています。意外と近くの身内よりも遠くの赤の他人様のが暖かいこともあると全てではないだろうけれど思います。

 

今の時点での途中経過

今回は先週病院に行った時の病名と妥協したことを伝えたいと思います。

 

病院には初め肺が苦しくなって胸痛がして頭がぼーとしてしまって神経内科に行きました。その結果が過換気症候群と診断されて神経内科ではお薬も限られているとは言われたのですが、その時は直ぐに治るだろうと思ってしまってまたその先生が話しやすかったので暫く通うことにしました。私が過換気症候群になった原因は離婚する一か月前に自分で追い詰めてしまっていたからです。その話はもっとずっと後に話すつもりです。去年の6月にその症状が分かって病院に行ったのがその年の11月でした。12月半ばには身体に痛みが走るようになって歩くのが辛くそれでも仕事中には気がまぐれていたせいか、痛みは仕事中には感じなくなっていたので痛めたかな?位でそのままにしていました。

 

早く病院に行けよと思う方もいらっしゃるかもですが、12月の時点で物凄く時間にゆとりが持てなくて他の病院に行っていたのと病院嫌いで我慢してしまっていました(笑)

 

翌年の1月激痛が膝。腰。背中。と走って整形外科にいきました。その時は痛みの原因が分からなくて痛み止め、シップとリハビリ通いで行っていたのですが、お薬が強かったのか口内炎が喉の奥、扁桃腺、舌の横&裏とぼこぼこ出来てしまって食事がお昼以外まともなのを食べれなくなってしまいました。夜はアイス等ほぼ液体のもの中心でした。3月。。ぎっくり腰やらかして4月退社。。1か月療養して痛みがなくなったので新しい職場で働きだしたら。。1~2週間目にして痛みが再発&過換気の症状がさらにひどくなってしまいました。目が朝に覚めたときには指が腫れている感じがして曲げられず。徐々に曲げれるようになって身体は全身激痛でかなり早くに起きないと仕事には間に合わなくなる始末で、めまい。通勤のバス酔いも頻繁。。常に頭がぼーとしてしまって物忘れも激しくなりました。そして更に不安定になってしまいました。

 

7月整形外科でリウマチ科の招待状をもらってリウマチ科に行ったところ線維筋痛症と診断されました。そこでもらった痛み止めを服用したらまた口内炎がぼこぼこ出来てしまって先生に相談したら「線維筋痛症のお薬は心療内科でも出していてそのお薬で治る場合もある」と教えてもらったので自分でGoogle調べて、今の心療内科に通うことになりました。実際痛み止めのお薬が効きだしたのはの約4か月後で私はメンタルも持たなくなってしまってお仕事を一回断念することに決めました。今年の11月に資格(食品衛生と防火管理)の更新があったのですが椅子に長時間座ることが出来なかったのでまた必要になったら取り直そうと決めて諦めました。けれど重たいもの持たないようにして変な体勢をしなければ普通に動ける多少の痛みまで回復はしています。

 

。。で、先週1つ分かったのが疑いからほぼ確定の解離障害だと言われました。勿論それだけでなくて他のも原因はこの先探して見つめ直して直していく予定です。先生曰く昔から解離はあっただろうとのことでした。納得できました。

 

今は数時間でも働きたいけれどまた無理をしてしまったら周りに迷惑かけてしまうのでもう少し心身のリハビリをしたいとおもってます。その為には心のゆとりを持つことだと思っています。せっかく自由になれた今楽しまなきゃ損ですからね。家で出来る遊び?癒し?邪気払いのお掃除ゆるゆるとやりたいです。いちちゃんと。。

 

 

 

歪む心。

今回は中学2年生の時に親が別居していて父親の所に一時住むようになる前となる迄のお話をしたいです。姉の暴力がどんどん酷くなって束縛も酷くなってきます。その中で母親と約束していたことを母親は守ってくれなくて心が更に歪んでいってしまいます。私の心の中で姉に対する気持ちが好きから憎しみに変わっていきます。生まれて初めて殺意をわきました。人を呪いました。この時に母親によく言われていた言葉は「あんたは大丈夫」と「後2~3年待って。必ずよくなるから」正直私は限界でした。ある意味運よく犯罪には手を出さないで済みましたがこの時は毎日追い詰められ始めていて未成年の内にいつか〇してやると恨んでました。姉のようには間違ってもなりたくない。ずるい卑怯な姉にはなりたくないと。その想いが強くなりすぎて今ではある意味真面目と言われるようになってしまってます。その言葉は正直嬉しくないですが今は家族のような人にはなりたくない一心でまだ行動とは裏腹に人には真面目と言われる始末です(笑)そんなこと言ったって似ちゃう所はどうしても似てしまうので私は自分がまだ大嫌いなんですけれど。いつか自分を許したいし好きになりたいですね。

 

中学2年の半ば辺りから段々と姉の私に対する敵意が酷くなっていきます。私に姉はわざわざ「人は髪の毛を引っ張るときにねじり上げながら引っ張ると痛みが増すんだって」と言って次の暴力の時に私に実戦してきます。裸足の足で裸足の私の足を踏みつけてぐりぐりしたり爪と皮膚の皮の薄いところを思いっきりつねってきたり馬乗りになって質問して気に入らなければひっぱたかれたり、おなか殴られたりと。。けれど顔は痣が出来てしまう為かあまり殴らず見えないところを中心にとにかく手を出されました。タンスの中に私が食べ終わった茶碗を入れられたり、柱の下のほうに(丁度私が寝る位置の所の柱←布団の頃)【きのこ馬鹿〇ね】と書いたりベットになるとベットのシーツの裏側マットレスの下くまなく荒らされて読まれたくない漫画、CD等全て見られる取られる。そんなのがほぼ毎日続いてました。少し前にお風呂を一緒に入った時に「きのこが嫌いなんじゃなくて妹と考えると憎くなって仕方がないんだ」と言われていました。我慢が出来なくなってきて母親に「後1回暴力ふるったら父親のところに預ける話はどうなったの?あれから何度もぶたれてるんだけどいつつれていってくれるの?」「約束はどうなったの?」と叫びながら言っても母親ははぐらかすばかりです。父親に電話をするようになって「やくそくだよね?姉はあれから私に何度も暴力をふるってくるよ。姉を連れて行ってよ!」と悲痛な叫びを訴えました。すると父親はやっと動いてくれて一回家に来て無理やりでも姉を連れて行こうとしてくれますが姉は抵抗して結局家に残り、父親を数年位無視をしていました。正直父親はメンタル強くないので姉に無視されていることに傷ついていて申し訳なく思って罪悪感に見舞われました。その後も暴力をうけてたまらず私は母親にこう言います。「姉が出て行かないのなら私が父親の所に行く」と。。すると母親は「分かった」と言います。当時はショックでした。(嘘つき)。。父親に私が父親の方に行くと告げると了解してくれます。そして荷物の準備をして父親が車で迎えに来て私は父親の所に行きました。涙ぐみながら。。私は当時母親っ子だったのです。

 

今回は上手に締めくくりは出来ないですがこれくらいにしておきます。今は一年前まで合わない人と生活していたり関わりたくない人がまた関りあいそうになったのでその当時は壊れましたけれどそういう人とは縁をばっさり切れたので後は壊れた心身をいたわりながらゆっくり少しでも楽しみながらイチちゃんと歩いていきたいです。因みにイチちゃんは私の唯一信頼出来る大事な家族フェレットちゃんです。そして昔のお友達も少しいて人生の先輩もいて新しいお友達も出来ました。凸凹しちゃっているけれど、決してマイナスではないです。人に支えてもらいながらですが生きれています。素直に生きるのが一番ですね。苦しければ壊れる前に私は逃げます。そうしないと本当に心が他人の身勝手さで殺されてしまうと身をもって味ってきましたから。

 

 

 

弱い私が選んだ道。。逃げ

今回はピアノのK先生との軽いやり取りと無様に無気力になってニート化して下落していくおはなしです。大体が中学2年生までのお話しです。中学生の間は特に逃げ放題でした。誰にも分かってもらえない。母親は姉ばかりといつも台所で話していて私は母親と私の部屋で2人がいる間はヘッドホンで音楽聞いていたり当時好きだった漫画をよくよんでいました。

 

私はピアノを中学2年生の時に習い事を辞めて一回ピアノの先生とはお別れします。ピアノのK先生は2人目の先生で小学1年生位からのお付き合いです。K先生には基礎用語、記号、強弱、記号の書き方、弾き方等一通りおそわりました。。が今は

殆ど忘れてしまって何となくで趣味で弾いています。。(先生ごめんなさい。。)私が小学3年生の頃に初めての発表会に出させてくれます。初めての曲はソナチネの曲のうちの一曲です。めちゃくちゃスパルタでした。私としては記号見て強弱付けているけれど、先生の言う表現が何でそうなるのか分からず苦戦するのですが父親も元音楽家で先生の家では先生に教えてもらって家では父親に教わりながら練習して発表会は無事に何事もなく楽しくおわりました。そして小学4年生。モーツァルトのトルコマーチを私はなにか惹かれて立候補します。自分で選んで好きな曲ですから一生懸命に練習して4年生の時も楽しく発表会は終わりました。そして5年生。。トルコマーチの第1楽章をひきます。去年の出来に自己満足してしまい調子に乗って練習おろそかになりました。そのころには父親も家庭内別居していて私は何かの拍子で喧嘩してから母親側についていたので教わらずあまり練習もせずそれでも家と先生の家では上手くいっていたので何も考えていなかったのです。そして当日の発表会での一小節目に私はやらかしました(笑)曲のテンポはとても速い曲なのですが何故かゆっくり弾いてしまい私はパニックになってしまって頭の中真っ白になってしまうのです。もう一回初めから弾き直したかったけれど弾き直していいものか分からず仕方ないのでそのままのテンポで弾きとおしました。落ち込んだ私に追い打ちをかけたのがまた姉が完璧と言って良いほどに弾いて終わらせるんです。二人で終わってから戻る途中に知らないおじさんが姉に「いや~最高に良かったよ。凄いね君」と姉だけに言っていて自分のいかに実力不足かを味わってしまってそれ以降はあがり症になってしまいます。小6ソナタのうちの一曲去年の事があってからまた間違えたらどうしようとプレッシャーがのしかかってしまってとても楽しむことだなんて出来なくなってしまいます。そして発表会またやらかしてしまいます(笑)リピートしないところを思いっきりリピートしてしまいます。去年よりは練習していたと思っているんですが(今現在の思い出では)普通に実力が曲に追い付いていけてなかったのだとその当時も感じざる得なかったです。最後中学1年ショパンの華麗なる大円舞曲。。これが先生と後に再会するまでの間では最後になります。練習しても上手に満足に弾けず先生も焦りからか鬼の形相(ごめんなさい笑)になって一生懸命に教えてくれるのですけれどもういっぱいいっぱいでした。自分が弾くタッチが嫌いで後は家では電子ピアノだったので音が先生の家のと全く違くて弾けば弾くほど嫌気がさしてしまってピアノが段々に苦痛に感じてきてしまうのです。この時には母親から「ずいぶん前に先生から音楽専門学校進められたけれど断ったわよ」と、しれっと聞かされていたので頑張っても趣味で終わると思っていたし、学校での虐め、母親は姉に付きっ切りで私には「あんたは大丈夫。心配なのはお姉ちゃんだ」と放置され始め、姉からの暴力はほぼ毎日&私の友達との交換日記←まだポケベルすらぎりない時代で勝手に盗み読みされて馬鹿にされたりで交換日記はすぐにやめたけれど。。これ以上誰かに否定されてしまうのは耐えれなくなってしまいました。そんな中で弾いても良い曲は弾けず完全にやる気をうしなってしまい最後は緊張のあまり先生に隣にいてもらったのですが実力の半分も出せず終わりました。学校にはそれからほぼ行かなくなります。行っても偏頭痛が酷くて椅子に座っているのも辛くて後は冷たい言葉を投げかけられて、暴力されないからやり返せない。物凄く恥ずかしくて全身熱くなって今更自分のどこがそんなにみんなが嫌がるのか聞きたくても聞けなくて直したくても直せず。家に帰れば母親は姉のことばかりで「後3年我慢してちょうだい」とか「後1回お姉ちゃんが暴力ふるったら父親の所に預けるから」←この時にはもう別居していて父親はいません。そう言われながらずっと同じような言葉を繰り返すだけ。しまいには「誰にも言うな」と。。正直学校の先生に助けを求めたかったけれどどうしても言えず友達とおじいちゃんとおばあちゃんには何度か言ったけどおじいちゃんから見れば当時私の小さいころからのイメージはしっかりとわからんちん。姉は素直に「はい」と言ういい子であったためその時は分かってはもらえずに周りから見たらただの姉妹の喧嘩位にしか思ってもらえませんでした。でもおばあちゃんはこの時は何も言わなかったけれど少し感づいてはくれていました。何となくそれはわたしの肌に伝わったし後に私の同じ嘆きを毎日聞いてくれてた時に教えてくれたからです。でもその時本当に気付いてくれる人はいませんでした。ピアノのK先生から電話がかかってきて活を入れられたのですがこれも姉がちくったのかと怒りに変わってしまって私の気持ちはどうせ誰も分かってくれないんだと。もう怒られるのは嫌だと感じてしまい後に辞めてしまいます。家にいる時はニート=ゲームですね。どっぷりはまっていました。後はお友達も家庭環境でおばさんと共に苦労して学校をさぼるようになったので私は友達と遊んだりしていました。ただただ楽しい事だけが唯一の逃げ場でした。頑張ることが馬鹿らしくて先が見えなくて何も考えていなくて努力だなんて中学生の頃は全く持ってしなくなりました。

 

当時の私はプライドの邪魔もしてしまって学校の先生には助けを求めることが出来ませんでした。後は言わなくても気付いてほしいという願いもありました。けれど人は簡単には気付いてくれなくて伝えても分かってくれなかったり面倒に巻き込まれたくなくて見て見ぬふりもします。けれど100人中1人はもしかしたら伝えれば助けの手助けは途中まででもしてくれるかもしれないです。助けを求めなければほぼ0%気付いてはくれないと思っています。39歳までの私は本気で誰かに助けを求めれませんでしたし誰に助けを求めればいいのか分かっていませんでした。周りに助けを求めても無駄なら区役所、命の相談、何でも良いので何度でも諦めずに助けを求めて下さい。掲示板は中には中傷してくる人もいます。なので素人の方よりは専門の方に諦めないで一人に限らず助けを求めてみてください。心と身体が壊れる前に。。

 

 

 

初めて自分の過ちに気付く。

今回は人を傷つけてるときは気付けなくて自分がやられないと人の痛みや苦しみが分からない私の愚かな話です。私はこの後も情緒不安定になっていって傷つけたくないのに傷つけてしまっていたのでもしかしたら一生この苦しみはとれないかもしれないです。

 

当時私は恥ずかしいことながらまだお友達に(男の子中心に)暴力をしてしまっていました。それと同時に姉からの暴力が日に日に酷くなっていきます。他の日お友達の所の部活吹奏楽部に入って初めは楽しかったのです。先輩も優しいしその時はお友達も出来てやって良かったと思っていました。そして少し後にSさんという小学生の頃のお友達が入ってきます。家が同じ方向なので理由を聞くと「周りに虐められた。」と言っていたので普通に可哀想だなと思ってました。少しの間色々おしゃべりして私なりに楽しかったのですがSさんが急に不機嫌になって「貴方のそういう所がむかつく」と言われてしまうのです。理由が分からず私はその時はふてくされました。それから2日後位に同じクラスの子(1/3位は吹奏楽部)達の態度が段々と冷たくなっていきました。部活の帰りに皆と一緒に帰ると私を中心に皆が冷たい言葉を言ってくるようになったのです。ただ訳が分からず悲しくなって泣いてしまったのですがSさんは「泣くぐらいなら一人で帰ればいいのに」とボソッと言ってきたのです。たまらず途中から一人で泣きながら遠回りして帰りました。家に帰ると母親がいて私の異変に気付いて「どうしたの?」と聞いてきます。初めは戸惑ってたけどその時は素直に泣きました。母親はその時私の聞き間違えか分からないですが「3日やすんで良いよ」と言ってくれたような気がしてました。けど次の日休もうとしている私に「学校行け」と体中叩くのです。私は心の中で(昨日3日休んで良いって言ったじゃない)と怒りを飲み込んで取り敢えず顔さえ守れば痛みに耐えれると思って掛布団で頭だけくるんで後は叩かれるのを我慢していました。暫くしたら母親は「勝手にしなさい」と言って少しして会社に行きました。結局叩かれては痛みを我慢して休むを3日間続けました。そして三日後私なりに頑張って学校に行きました。他のお友達や先輩はその時は心配をしてくれたんですけれどそんなのは焼け石に水みたいな感じでこの後エスカレートしていきます。虐めってこんなにも悲しくて辛いんだとこの時にようやく気付けたのです。情けないですけれどね。私は自分の今までしてきたことを思い出してお友達や年下の子にこんな酷いことしてしまったんだなと今でも後悔しています。少しして私が嫌っていたお友達に謝りました。そしたら許してくれて本当に心から感謝しました。その子とは卒業迄仲良くできました。同時に私は今までどうやってお友達を作ってきていたのか分からなくなってしまいます。家に帰れば姉からの暴力と束縛で学校行けば嫌われて。。小学校の頃のお友達何人かは普通に接してくれたけど、同じクラスではなかったので正直苦しかったです。虐められて手をあげられればやり返す事は出来るけど自分からは気付いた時点では人に暴力をふるいたくなかったのです。。姉と同じになりたくなかったし、変わりたかったんです。苛め自体は正直怖くはなかったのですけど、プライドがあったのかとにかく恥ずかしかったんです。本当に顔が赤面してしまう程。それと3日間休んでしまったせいで英語の授業が単語から繋ぎ?に変わっていてその時点でついていけなくなりました。先生に聞いてもただ「単語を覚えなさい」しか言ってくれず頭が固い私は(どうしてこの文章でこの略になるのかが聞きたいのに。。)と絶望感を覚えました。男の子には相変わらずすぐには直したくても直せなくて気が付いたら手を出してしまっている自分がいて私が学校に行かなければ人を傷つけることはないし、これ以上嫌われることはないと思ってしまうようになってしまいました。母親は初めのうちは学校に行かない私をとにかく叩きました。バチンバチンと。。そのうちに私の中に怒りが芽生えるのです。(どうして姉からただでさえ毎日毎日暴力受けているのに物も盗まれるのに学校でも辛いことを一回伝えたのに母親まで私を叩くんだ)と。そしたら母親に私は力ある限りやり返しました。力と言っても中学1年の私の力は母親からしたら大したことなかったかもしれないですね。でももう学校に行きたくなくて夕方姉が帰ってくるまで現実逃避をしていたかったんです。もう姉の匂いも嫌でした。私はほぼニートになりました。

 

人を傷つけたり追い詰めたりしたことは必ず違う形でも自分に返ってきます。同時に私を追い詰めた元家族。元身内。元夫とその家族もいつか必ず自分に返って来ると信じています。信じるだけ信じて後はもう2度と関わらないようにして恨むこともやめたいです。じゃあ何故ブログを書くかと言うと自分のリハビリのためであったり、私と似た環境の方がこのブログを見つけて一緒に立ち直っていってもらいたいからです。今言えるのは40歳になって身体はまだ壊れていて心もまだばらつきはあるけれど間違いなく去年よりはずっと幸せなのは確かです。それでも罪と罰は決して消えないと思っています。毎日反省と毎日幸せを感じて今もこれからも生きていく事になると思っています。

 

私よりも、もし人や人以外の子達をまだ傷をつけていない人はどうかこの痛みを周りにぶつけないであげて下さい。周りの方達と自分の為にも。