ある意味特別な私や私の元家族達

ブログ2回目 幼少期から小学5年生くらいまでのお話し

 

幼少期の頃の記憶はあまりないです。ただその少ない記憶の中で子供ながらに違和感を感じていた思いが残っているので今回はそのお話を書いていきたいです。

 

私は生まれる時に予定より約1週間程早くに生まれたそうです。

 体重も3300グラム位ですんなりと生まれたらしいです。

少し早くにうまれたせいか、はたまた偶然かは分からないですが 生まれてすぐに

アレルギー持ち、そして2歳の頃はひきつけを何度か起こして喘息持ちだったので丈夫ではなかったですね。親からは甘やかされて育ちました。

 良く言えば自由奔放、悪く言えば我が儘な子ですね。

 

当時の私、小学生に入る手前までもう一人別の子と2人赤ちゃん言葉が抜けきれませんでした。

ここの時の記憶で私自身が何か他の子と私は違うという感覚を感じてはいましたが

所詮子供の考えで特に不安は感じてはいなかったのです。

ただ単に疑問を抱いていました。

 そして各親達に先生はこう告げたそうです。

 

「専門の先生に教育をしてもらうことをお勧めします」。。。と

 

そのもう一人の子の親達は先生の言うことを聞いて専門の先生に任せて後に塾など通わせてその子は中学の時に私立学校の受験を受けて合格し、私立の中学に入学していきました。

 

一方で私の親達はというと、勉強だけが全てではないと判断し自己流で私を育てていきました。

 ひらがなの読み方、書き方を教えてそれで終わりでした。 その時の記憶が

父「お父さんが読み方を1から教えたんだぞ。きのこはそれまではさ行をちゃんと言え

  なかったんだぞ」と自慢げに私に言っていたでした。

確かに平仮名を教わっていたという記憶が残っていました。母親からは

母「先生にこう言われてお母さんどうしようかと思ったのよ」でした。

 

その期間に幼稚園でやってきた習い事

 ・ピアノ教室

・体操クラブです。

 

今私が思うには慣性を養うことは確かにとても大事なことですが、身体は多少弱くても

ちゃんと教育すれば、改善できるのならばもう少し子供の将来を考えてこの大事な時期に勉強やしつけを先に優先して教育するべきなのではと、子供のいない私ですが感じました。体操クラブは結局ひざのところにもアレルギーがあって砂の上で正座をすると悪化するので、あせもからの理由もあって辞めさせられました。ピアノ教室は私自身は楽しくやっていたのですが、ピアノの先生が日曜日もやると伝えたらしく親は反対して

泣いて嫌がる私を無視して辞めさせました。

 後に、今も繋がっている現在歌の先生=元ピアノの先生(k)せんせいの元で

習うことにになりました。K先生の話はまた今度お話したいです。

 話戻って小学生にあがり、私は音楽だけは成績が良いものの他の勉学にはついていけなくなっていくのです。

 

その理由が

 ・身体が弱く一回風邪をひくと喘息も出て1週間位は休むことになって一年の中で何

  回も休むことになる。

 ・3年生の時の担任の先生も身体が弱くて1/3位は自習になる。

 ・塾や家庭教室に行かせてくれなかった。

 ・親も教えてくれない。

 ・自己流で勉強をすると何故か否定な言葉を投げかけられ続けて勉強嫌いに拍車が

  かかる。

 ・元々勉強嫌いだった。

 ・当時の私に学校の先生に相談するという発想がなかった。

 

です。

 

私には姉がいました。姉は私とは対象にいい子で頭が良かったです。

 

ただ

 

姉は私を嫌っていたので小学生の時までは仲いい時もあったと思っていますが

からしたら、もうその時既に心底私を憎んでいたかもしれないです。

 

姉は私に対して。。 

・みんなの前で私が恥をかく様にわざとしむけること

・みんなの前でしていた時もあるけれど見えないところでは更に暴力が酷かったです。

・私が貸した物は壊れて返ってきて謝らないこともありました

・みんなの前では基本優しい姉

・姉は私を馬鹿だと思っていたので私を何度も騙して笑っていた。。でした。

 

私が姉と共通していたこと

 

母親は私達が生意気言ったときや悪いことしたときにビンタはするももの、力の暴力的支配はしなかったのですが私は姉に暴力されていたのでそれが普通になっていて私も友達に手をあげて傷つけてきました。

それだけでなく言葉でも友達を傷つけてしまっていました。

 

ここで矛盾していることは暴力は普通に思っていても当時の私は家族が好きだった為に

良い意味で特別な家族なんだとその頃は思っていました。

自慢の家族だと思っていました。

 

姉と私の違い。。

 ・姉は親の言う事を聞く、いわゆるいい子ちゃんタイプ。

・当時姉は私が生まれてから幸せではなかったこと

・姉は私が嫌いだった。

・幼稚園児の姉は一文字。。例えば『あ』という字が上手く書けないとノート1冊使

  ってでも『あ』という文字を完成させられるスパルタ教育。その代わり文字も

   綺麗だし頭も良かったです。

一方で私はというと

・我が道を行く、我が儘の、甘えん坊の、わからんちんタイプ。

・自由本譜という名のある意味教育放棄。教えてもらえない。

・勉学も人としても落ちこぼれ。。でした。

 よく親にはこう言われていました。

 父「きのこは頑固だから嫌と言ったら手が付けられないから勉強は教えたくない」

弁解させてもらうと私が記憶にない時にとった行動と発言を言われ続けて、当時の気持ちは【嫌と言えば嫌な勉強はしなくていい♪】と幼稚園児の私は解釈してしまったのです。母親はというと。

母「あんたの考えてる事はろくな事じゃないんだからお母さんの言う事を聞いていれば良いのよ」でした。。

 

私は頑固で我が儘なので初めは反抗していましたが失敗した後に何度も言われてきたので我が儘は根本的に直せないですが、のちに徐々に考える事をやめていきました。

  

親は私が小学5年生くらいまで個人の飲食店を経営していて父親は昼間から夜中まで仕事で家にいなく、母親は朝から昼過ぎまで仕事に行っていました。

 なので私や姉は殆ど父親が家にいる記憶がないのです。

 父親がたまに夜お客さんが混んだ時に母親を呼んで、母親は仕事場に手伝いをしに行くと当然姉と私の2人になってしまうのですが、姉のその時気分で暴力を私はうけて母親が帰ってくる少し前に凄く優しくなって私をだまらせていました。馬鹿な私はまんまとだまされていました(泣)

 

それでもその頃の私は家族が好きで姉も大好きだったのです。

それが親が飲食店をやめるとほぼ同時に私達の家族という歯車が狂い始めるのでした。

中学生の時には私は家族に対しての想いがが悲しみや憎しみと いう感情の変化に変わっていくのでした。

 

今回のお話で伝えたかったことは親の間違った選択によって、後に子供の人生が左右されるということです。

 

教育はとても難しいと子供のいない私でも感じているので、実際には想像以上に大変なんだと思っているのですが娘からの視線で言わせてもらえば、私の性格を決めつけないでもっと色々な事を教えてほしかったです。人を傷つけてしまう私がその時いたのなら生意気いったから手をあげるのではなく、その時は手をあげてでもいいから人や生命ある者を傷つけることは良くないと教えてほしかったです。

勉強も私を決めつけないで勉強の仕方を教えてほしかったです。

私に考える力を奪わないでほしかったです。

もう少し真剣に子供の将来に対して向き合ってほしかったです。

 

今日はここまでにします。

 

学校以外で知り合ったこの頃の貴重な人の紹介

 ・当時アパートで暮らしていた時の下に住んでいたおじさん(下のおじさん)

・金魚ちゃんたち

セキセイインコちゃんたち

・現在は歌の先生をしていて年に何回か歌のコンサートを開いている

 この中で唯一の関りがあるK先生←先生はまたまた別の時。。かな?次に途中まで

 かな?

 

。。は次にお話したいです。

 

今日1日皆さんにとって素敵な日でありますように。

 読んで下さってありがとうございました。