やったことは自分に返ってきた。

何だかんだで小学を無事に卒業して中学1年生になりました。初めて着る制服。重いけど新しい鞄、テンション下がるジャージ(笑)新しいお友達、部活と全て新鮮でした。

私は初め体操部に入部しました。少女漫画でリボンをくるくるするシーンに憧れていたのです。そこには姉のお友達、私にとっては先輩がいてとても優しく迎え入れてくれました。けど何回かして怖いことを聞いてしまいました。先輩は「初めは身体固いかもだけど股関節と脚の間がゴキっとなったら柔らかくなるよ♪脚の長さの成長は止まるけれどね♪」私は(えっ?それって関節外れてしかも長くならないってことは短足になってしまうの?)と一気にやる気がなくなってしまったのです。体操部はあこがれだってけれどそこまで本気じゃなかったのです。幸いまだ仮入部のみだったので、適当に嘘ついて←(先輩ごめんなさい。)辞めてしまいました。そしてその学校は必ずどこか部活を入らなければならないので少し迷いましたが、また軽い気持ちで小学6年の時に学芸会で主役をやらせていただいたのですがとても楽しかったので取り敢えず入部しました。入った瞬間後悔したのが入部の人が私ともう3人?と先輩は4人とかなり少なかったのです。一瞬部屋に入ったことを後悔したのですがその時は辞めると言えなくて演劇部に入ることになってしまったのです。そこにも姉のお友達がいて他の先輩もとても優しくして迎え入れてくれました。人柄は先輩たちはとても優し3やっぱりしてくれて大好きでした。けど中学独特の人を馬鹿にする。。難しいお年頃ですよね。発生練習している姿をクラスの子達が見て馬鹿にしてきたのです。小学生の頃の私は言わせたい奴には言わせておけタイプだったんですけれど中学になってからとにかく恥ずかしくて仕方なくなってしまったのです。結局先輩たちは凄く良くしてくれていたのに、楽しかったのに、またもや辞めてしまったのです。次に私が懲りずに目をつけたのはバトン部でした。今思うと体操部ととても似ていると思うので無理だと言うのは承知なんですけれどバトン部に入ろうと思うと姉に告げたら「あんたにはバトン部には入れさせない。文化部に行け」と言われてしまうのです。姉からしたらお友達の目もあったのかもしれなくてそれならそうと言ってくれれば自分も悪いんだと今では分かるのですが当時姉=逆らう=暴力が待っていたので、私が運動部に行って姉より輝く部活に入るのが許せないんだと思っていました。実際姉は自分よりも妹の私が全ての能力で上になることを遊びですら許せないところがあったのです。結局小学生の頃のお友達=現在唯一私の過去を知っている繋がりの子が入っていた吹奏楽部に入りました。中学生になって楽しかったのはそれからほんの少しの間だけでした。

 

クラスで何人かお友達も出来て少しして自然教室がありました。その時に色々と足りないものを買いそろえるのですが女子と言えばまな板胸でも初めは憧れるブラジャーですね(笑)体育の時はスポーツブラなんですが←どんなにぺったんこでも。自然教室ではやっぱり少しでも可愛い普通のブラを憧れていたのです。買おうとしたら姉は「普通のブラなんか皆しないよ。スポーツブラで十分だよ。している子なんかいなかったよ」と言ってきたのですがどうしてもほしかったのでその時は無視して買ったのです。そしたら新しいブラを取り上げられて「貸して」と一番初めにつけられてしまったのです。私は(何だよ。結局嘘で本当はうらやましかったんじゃん)と怒りがこみ上げてきました。そのあとお古になったそのブラを自然教室でつけていきました。自然教室自体は楽しかったです。

 

返ってきてから学校生活に戻ります。小学6年の頃のお友達【皆の悪口を言っていて自分も言われていると思い込んでしまって嫌ってしまった子】の親から電話がいきなりかかってきました。母親が出て話を聞くと「私が中心になってその子をいじめていると」その時の私は確かに嫌ってはいたのです。お友達にも悪口は。。ごめんなさい。言っていたのです。でも私自身は嫌い=いじめている。という認識がなかったのです。でもそのお友達がそう追い詰められてしまって捉えてしまったんだから虐めになってしまっていたのだと今は思っています。けど当時は意味わからなくて「嫌ってるけれど虐めてないよ」と言ってしまい母親は母親で「まぁ子供同士のけんかでしょうからもう少ししたら仲直りするのではないのですか?」とその子の母親に電話越しで言っているのが聞こえてきました。そんな私にもちゃんとバチは返ってきました。ここからがつい最近まで苦しんでしまう階段を登り始めてしまうのです。

少しずつ壊れ始める家族と最低な私

私が小学5年生になって姉が小学6年生になって親は自営業を辞めてお勤め、家庭内別居をしてから姉の私と母親に対しての暴力が少しずつひどくなっていきます。父親には敵わないと分かっているので父親の前ではいい子、周りの人にもいい子を演じていました。でもその時はまだ私は母親と姉は嫌ってはなかったのです。大好きでした。父親は正直私をしつこくからかってくるのであまり好きではなかったです。そんな中私はお友達に気付かず暴力をふるってしまっていました。きっとその時の私は力で人を押さえつける事に満足していたんだと思っています。でも人を傷つけているという感覚は全くわかってなかったのです。お友達関係はそのまま自分の愚かさに気付く迄2年かかってします。

 

私は大好きだった母親とよく夜の散歩に出るようになりました。主に父親の悪口を聞いて私も「最低だ」と合図地打つ感じです。姉も母親と二人で夜散歩に行き同じことをしていました。まぁ私以上に父親の悪口を聞かされていたのですが私は姉にばかり何でも話す事に焼きもちやいて「私にも教えてよ」と何度も言ったのに「ダメ」とおしえてくれませんでした。

 

私が小学6年、姉中学1年になってから力の差は歴然と差がつきます。そのころ友達1人が「年下の小学5年の子を生意気だからしめたい」言ってきたのです。私は当時何も感じませんでした。可哀想だからやめようとも、面白いからやろうとも。何にも考えてなかったです。普通にそうなんだ。。くらいにしか。。そして友達3人でその子を放課後呼び出して罵声をあげてしまいます。その子は泣いていました。それなのに私は何も感情はありませんでした。そして去り際に「先生に言ったら承知しねーからな」と捨て台詞吐いてしまうのです。そんなことをしたので当然次の日先生に3人呼び出しを食らって年下の子と先生混じってお話をすることになります。今思うとその子には本当に悲しい想いと深い傷、恐怖をあじ合わせてしまったと今でも申し訳なかったと心が苦しいです。どうか立ち直っていて幸せに過ごしていてほしいです。先生はそんな私達の愚かな行動にも強く叱ることはなかったです。多分逆恨みされないよう、5年生の子を守ったんだと思います。

 

卒業間際ふと気づくとそのお友達はいろんな子の悪口を言っているのに気付いたのです。私は(こんだけみんなの悪口言っているのなら私の悪口もいっているはず。。)と勝手に思い込んで嫌ってしまいます。最悪なのが私にとって嫌う=虐めになっている事に気付けなかったのです。

 

今でも私の子供時代の頃のことを思い出すと自分がいかに人として愚かで馬鹿な奴だったと後悔しか残っていません。楽しかった記憶もその間に人を傷つけていたのではないかと思うと苦しくて楽しい記憶だった思い出も思い出せなくなってしまいました。もしこのブログを見て人を傷つけてしまっている方がいたら必ず人を苦しめたことは自分にも形が違くても苦しみとして返ってきます。場合によっては人一人の人生も台無しにしてしまいます。皆が不幸になってしまいます。気付けた時点でもいいから少しずつでも自分も人も傷つけるのはやめて許してあげて下さい。人を傷つける事は自分も傷つけていることと同じだと思ってます。これはあくまでも私の勝手な考えですが。。

インコちゃんの新しい家族と悲しみと怒り

家には結局私のインコちゃんだけが残りました。少ししてからインコちゃんの様子がおかしくなっていきました。遠くに向けてぴーぴー鳴き声をあげてインコちゃん達を呼んでいるのです。左右に動いたりかごに飛びついたりして。。見ている私達はこのままだとこの子迄おかしくなってしまうと危機感を感じて意を決して新しい子を向かい入れる決意をしました。当時情報はどうやって手に入れたか忘れてしまいましたが今まで行ったことのない鳥屋さんに行って同じ黄色の子女の子を向かい入れました。その子はでんとしていてとてもたくましい印象の子でした。やっとぴーすけ←男の子も安心できるとうきうきして同じかごの中にピーコをいれました。ぴーすけは「何者⁉」と驚いたようにバタバタしてとびまわりました。ピーコも飛び回っていたけれどぴーすけ程ではなかった気がします(笑)無知だった私は荒治療をしてしまっていました。それに気付かず夜になってカバーをかけてねました。朝になって母親に「何だか1日中バタバタしていたよ」と言われたのを覚えています。そのあと運が良かったのかぴーすけとピーコは次第に心を開いていって仲良くなっていきました。私はそれが凄く嬉しかったのを覚えています。

Twitterさんの情報を見る限り鳥ちゃんが卵を産むということは寿命を縮ませることだということが分かったのですが当時は分からず自然に近い状況で生きることが鳥ちゃん達にとって幸せだろうと思い込んでいました。なので逆に赤ちゃんを産ませてあげたいとすら思ってしまっていました。巣箱を用意して鳥ちゃんが向かい入れる準備をしている姿に私は神秘的な気持ちになってとても嬉しく楽しみにしていました。

しばらくして巣箱からぴーぴー鳴く雛の産声が聞こえたときは早く見たいという衝動を我慢してある程度経ってから巣箱を開けました。黄色の黄色だからもちろん黄色の子

2羽で2羽共男の子。1羽は私の子鳥ちゃん。もう1羽は姉の子鳥ちゃんになってご飯をふやかしてスプーンであげました。その時私の雛ちゃんぴぴちゃん←名前にセンスがなく何でも頭文字にぴをいれたかったのです(笑)食べる時にスプーンをガジガジするんですね。これは大人になってもなつきにくいという症状らしいのです。けれどその時の私は「愛情さえあれば変われる」と思い込み下手なりにその時は愛情を込めたつもりでした。本ではなつかないで逃げ回るとかいてあったけれども結構逃げてもまだおっとり系だったと思います。それから暫くしてまたピーコとぴーすけは巣作りの準備を始めました。何も考えずかわいい子が増えると喜んだ私はまた産ませてしまうのです。次は女の子と男の子でした。女の子はふと見ると足が真横に広がっているのです。けど少ししたら治るだろうとみて深く考えませんでした。男の子は黄色の毛が特に綺麗な子でした。早くに私が触りすぎてしまったせいかピーコは放棄してしまいました。男の子は一生懸命キュルキュル鳴いて訴えていたのに私は気付いてあげれずその子は亡くなってしまいました。多分餓死です。なんで気付いてあげれなかったんだろう。悲しみと責任転換してピーコに対して怒りを覚えてしまったのです。それから私はピーコに関して冷たくあたってしまいました。今思い出しても本当に申し訳なくて目の前にいて言葉が通じたら本当に土下座して謝りたいくらいです。

3回目またピーコは妊娠します。母親に「これで最後にするからお願い」と言って産ませました。卵さえ取り上げれば生まれることはないですからね。今まで2回とも2羽ずつ生まれたので今回もそうだろうとたかをくくっていたのですが生まれたのは4羽でした。一瞬全部で8羽共にすることになったのです。みんな可愛いです。可愛いけれど全部愛情をちゃんと注げるかというとむりでした。初めは雛の子は寄ってきてくれていたけれど大人になったら鳥ちゃん達の世界が出来てしまったのです。

今はフェレットちゃんのイチちゃんがいますが本当は兄弟いたほうがいちちゃんは喜ぶかもですが愛情を平等にみる自信もないしいちちゃんに悲しい思いをさせてまで兄弟は増やしたくないと今は思っています。イチちゃんには下手なりに精一杯愛情を1番にあてたいです。

セキセイインコちゃん達の出会い1

小学5年生の時に同じアパートの小さい子Aちゃんがケガしたセキセイインコちゃんを捕まえたと握りしめていました。私はまっきっ黄色の綺麗な可愛いインコちゃんを初めて見て感動してしまいました。私と姉は最低なので私はどうしてもそのインコちゃんを飼いたくなりました。それは姉も同じだったようです。その子にうまく言い聞かせて家に迷い込んだことにして引き取りました。当時は情報とか保護とか何も知らなかったので迷い込んだ=育てましょう⤴という浅はかな脳裏だったのです。今だったら分かるのでどうかお許しください。

で、親を説得して飼えることになりました。1羽だけだと可哀想だという想いから2羽ショップからお迎えして計3羽になりました。その時はパソコンも携帯電話もなかったので情報は本でした。必要最小限しかない本を読んだりお店の人に聞いたりして私なりに楽しくやっていました。

私は男の子、姉は最初の子の男の子と女の子を向かいいれて同じケージにいれていたのですが、姉があるときから女の子を必要以上にいじめはじめたのです。何でそんな可哀想な事するんだろうと当時は理解できなかったのですが、数年後には私も壊れて同じような事をしてしまっていたのです。今は思い出すだけでも後悔と心苦しさが残って本当にやり切れない思いです。姉も私も人より暴力性があったんです。それなのに母親からは「あんたは優しい子だよ」と言われていたから今まで人を傷つけてきたことにその時は気付けなかったです。勿論母親だけが悪いわけではないことは承知です。

この辺り位から確か親がお店をたたんでどっか務め始めました。私は朝はともかく夜父親が家にいて家族4人で夕飯を食べれる喜びを楽しみにしていました。そんなのは数日間位?←よく覚えていませんがそんなに長くはなかったのです。私が当時住んでいたアパートは2部屋で母親と父親の部屋と姉と私の部屋に分かれていたのですが朝起きたら母親が私と姉の布団の間に寝ていたのです。初めは大好きな母親でしたから嬉しかったのですがそれが何日も続くとやっぱり変に思いますよね。姉と私が怒りながら「いい加減向こうで寝なよ」って言ったのですがそれからは父親のほうの部屋で寝ることはなくなって家庭内別居が始まりました。

それから少ししてベランダを見るとインコちゃん達がいないんです。私と姉はびっくりしてパニックになりました。原因は父親がインコちゃん達にご飯をあげたときに扉を閉めるのを忘れてしまったのです。ケガしていたインコちゃんは目の前の畑にいたのですがほっとしたのもつかの間黒猫が加えて持って行ってしまったのです。それを見た母親は「加えて行っちゃたよ」と言ったので姉は「何でそんなのんきなこと言ってるの?」と言って皆で探しに行きました。皆別れて捜したところ姉と父親がケガしたインコちゃんを抱えて姉は泣いていました。父親も険しい顔していたのですが、まだ生きていて私はほっとしてました。もう1羽私の育てていたインコちゃんが家の近くの木に止まっていたので逃げられたらどうしようと怖かったのですが、姉がしっぽをつかんで捕まえてくれました。これだけは今でも感謝しています。残り姉のインコちゃんを探していた時私は父親に酷いことを言ってしまいます。「お父さんがちゃんと扉を閉めないからみんな逃げちゃったんじゃん」と。。私は薄情で自分のインコちゃんが帰ってきてくれた安堵から疲れがどっと出てしまって先に家に帰ってしまいました。父親はずっと探していました。確かに父親の不注意でしたがそれは言ってはいけなかったと今でも反省はしています。結局最後の子は見つからずチラシを配ることにしました。

次の日学校から家に帰ろうとしたときに母親が迎えに来ました。私は「(ケガした)インコちゃんは大丈夫?」と言うと母親は「。。死んだ」と一言いいました。はじめ理解出来なくて受け入れられなかったけれども、家に着いてから亡くなったインコちゃんを見て泣きました。姉も泣いていました。チラシも配って約1か月何の情報もなかったけれどやっと一軒の電話があったのです。ただ。。出たのは母親で断ったのです。理由は逃げてから1か月経っていて相手が男性だったからだと。。私は母親に強い怒りを覚えました。それからはチラシを貼った場所を覚えてる限りとったか取らないかはうる覚えです。

何が変われたの?

私が小学5年生になった時小学生1~2年生迄の担任がまた先生になりました。当時は先生がとても好きで嬉しかったのですが、私は落ちこぼれ、我が儘忘れ物宿題やらず出来損ないで早速めをつけられました。毎日何かにつけて怒られるのです。それだけだらしなかったのでしょうけれどもその時は理由が分からずとても苦しかったです。私は水分を多く摂取する為トイレがどうしても近くなってしまい帰りの会の頃にはいきたくて仕方なくなってしまいます。先生に「トイレ行ってもいいですか?」と伝えるのですが「行ってもいいですか?ていうことはダメと言われればいかないのね。」「そういう時はトイレに行ってきますと言いなさい。」と言われていかせてくれませんでした。私なりに(でもトイレに行ってきますっておかしくないかな?)と思ってしまい、なかなか言えず言えるようになったのはそれからしばらくしてでした。1回目は先生も「行っていいですよ」と言ってくれたのですが2回目は「今帰りの会してるから待ちなさい」と言われてしまいどっちみちダメなんじゃん。。と嫌いになりました。音楽以外は落ちこぼれでいつも急いでも時間通りに間に合わないから居残りが多いし、その時に勉強の仕方を教えてもらえば良かったのですが当時は思いつかずお友達よりも先生に毎日何かしら怒られる苦痛で本当は学校行きたくなかったです。でも家で学校行きたくないと駄々をこねるとビンタくらっていたので無理やりいっていました。

 

そんな中私は喘息もちで普段は普通なんですが風邪をひくと必ず喘息起こして1週間最低休みます。それが年に何回か起きるのですが今回は本当に苦しく喘息にある程度慣れていても流石に病院に連れて行ってほしくて母親に「病院に行きたい」と言ってつれていってもらいました。自転車で後ろに乗っていたのですが途中で気持ち悪くなってしまっておろしてもらった瞬間にもどしてしまいました。母親は近くのお店からお水をもらってきて汚物を洗い流していました。その時に知らない女性から「大丈夫?」と言ってティッシュをもらってお礼を言いながら(この人は人が吐いたの見て気持ち悪くならないんだ。。凄いな)と感心しながら←私は人の吐いたの見るともらいばきしてしまいそうにいまだになります(笑)病院につれていってもらいました。先生に呼ばれて診察受けたところ先生が母親に「なんでこんなになるまで病院に連れてこなかったんだ」と怒っていました。そのあと入院したので私は母親に「お友達に伝えたい」と言ったら「大したことじゃないから言わなくていい」と言ってそのまま風邪で通そうとしていました。その時にお友達に言ったとしても来てくれたかは今となっては当時我が儘だった私なのでなぞですけどね。数日して退院してから姉から「先生から電話あってキノコは今入院してますよって言ったらびっくりしていたよ」と言われました。

 

次の日学校行ったときに朝の会で先生が「きのこさん。あなた入院していたんだってね。何でおしえてくれなかったの?」といったものだからクラスの皆がバッと私のほうをふりかえって見てきて「え~⁉」と言われてチキンな私はそれが凄く嫌で「お母さんが大したことないから誰にも言うなっていうから。。。」と小さい声で言いました。先生は「お姉さんが電話に出てキノコなら入院してるっていうからおどろいたわよ。」と言っていました。それから気のせいか先生の私に対しての風当たりの強さは消えたような気がしました。後に先生が「キノコさんは変わった」と言ってくれたけれど私には何がどう変わったのか今でもさっぱり分からないです。先生は厳しい?厳格な方だったんだなと今は思っています。それでも病弱な子には優しい先生だったのかなとも思いました。

金魚ちゃん達との出会い

~金魚ちゃん達との出会い~

農協祭りに下のおじさんに連れて行ってもらったときに金魚ちゃん達とであいました。

金魚すくいは紙タイプではなくで最中?みたいなものですくうタイプで比較的に簡単なタイプで私は食いつきました。普通の子ならば1から2回位又は2か3尾すくえば満足すると思うのですが知識も加減も知らない私は40尾前後お持ち帰りしたと。。農協のおじいちゃんにも「まだやるの⁉(汗)」って言われてしまってました。

今思うと金魚ちゃん達にもとても可哀想な思いをさせてしまいました。

ほくほくな気持ち。初めて生命ある者を飼える喜びを感じながら発泡スチロールの中に金魚ちゃん達を入れて家にお持ち帰りしました。当然ながら母親はビックリしていましたが、おじさんがいる手前育てる事を許してくれました。

後日水槽。空気ポンプ。水草。ご飯。お水を綺麗にする錠剤。を買って金魚ちゃん達を移しかえました。可愛い金魚ちゃん。だけれども自然の中の掟、生きるということの厳しさを目の当たりにしてしまいました。1尾の金魚ちゃんを他の金魚ちゃん達全員で追いかけてつつき殺してしまうのでした。弱肉強食の世界でしたが当時の私には理解できませんでした。急いで小さい水槽

(プラスチックタイプ)を買ってきて追われる金魚ちゃんを見つけたら移すのですが、まず助かりませんでした。一旦元気になるので元の水槽に戻すのですがまた襲われてしまって力尽きてしまい、それの繰り返しでした。当時の私にはどうしてあげたら良かったのか分かりませんでした。前回1番先頭にたって襲っていた金魚ちゃんが次には襲われて。。ショックでした。それでも最後に残った金魚ちゃんは私が家を離れた10代半ば迄生き延びてくれていました。今はちゃんと金魚ちゃん達や他の子達と向き合えなかった申し訳なさが残っています。子供の私は命の重さを理解していませんでした。お水が汚れれば金魚ちゃん達は苦しむのですが、お掃除より遊びを重視していました。姉もそうでした。母親はそんな私達に注意はするものの途中から何も言わなくなります。どんなにお水が汚れようが放置するのでした。お水が汚れて金魚ちゃん達が死ぬということを教えるために。。そのことに関しては今でも私には理解できません。ひっぱたいてでも何度でも教えてほしかったです。まぁ、当時私は人として馬鹿だったのでたまにしか掃除はしませんでしたが。。今となっては言い訳ですがそれでも放置していたつもりは当時はなかったのです。1尾が死んでしまってそれに気づかないでいたら他の子達も死んでしまうことが分かったので気付いた時点で土に埋めて、お水もとりかえていました。愛情はあったのですが当時はあまりにもだらしがなかったのです。。本当に生き物を育てる資格は当時はありませんでした。それでも後にセキセイインコちゃん。ハムスターちゃんを10代までに向かい入れて39歳迄自分の過ちに後悔して苦しみつづけました。その話はまた今度お話しますね。

下のおじさんと金魚ちゃん達との出会い

今回は下のおじさんの話の続きをしようと思います。

私のわんぱくさ。我が儘さ。馬鹿さ加減をほぼ全て受け入れてくれた偉大な方です。

この人がいなかったら、私は今また違う悪い性格になっていたかもしれないです。

 

私が高校1年の時迄はアパートの2階に住んでいたのですが幼稚園の頃に下におじさんが引っ越してきました(下のおじさん)年齢は当時30代位だと。。記憶が定かではありません(笑)

母親から「下の階にSさんっていう方が引っ越してきたよ」。。みたいなことを言われた記憶が残っていますね。初めの挨拶してきてくれたのは残念ながら覚えていません。

下のおじさんは独身の方で物凄く優しい方で、私の我が儘や図々しさを殆ど受け入れてくれていました。

今でも何であんなに優しかったのか分かりません。

おじさんは大体土日がお休みで時間が空いていると私や姉を家にいれてくれました。

そして何度も交流しているうちに農協祭りに連れて行ってくれました。お祭り券をいっぱい私と姉にくれて好きなの遊んだり取り替えたりしていいよと言って遊ばせてくれました。思い返せばおじさんがその券を先に購入して私達に気を使わせないように気遣ってくれたのだと今は感じています。車で高速入って約1時間くらいのところにお祭りはありました。

わたあめ。ヨーヨー釣り。くじ引き等々。。子供が好きそうな遊びが沢山あって的屋とはまた違うおじいちゃん達が運営していました。その中で私の目についたのが金魚すくいでした。金魚ちゃん達を見て私は物凄く惹かれるものがありました。そして他の遊びはそっちのけで金魚釣りに専念して帰るころには多分40尾程になっていたかと思います。金魚ちゃんの話はまた別の時にお話します。

私にとってとても優しくてほぼ我が儘を受け入れてくれていつもにこにこしているおじさんが大好きでした。

それから少ししてクリスマスの日親がクリスマス会(家族で)やるよと言っていたのでふとおじさんの顔がうかびました。おじさんは独身で一人なんだな=だったら家に招待したいなぁっと思って勝手におじさんを招待したのです。招待してから親に告げたら怒られてお尻を服の上からぶたれました。今となっては理由は分かるけれどもとても悲しかったです。大好きなおじさんを招いたら何故怒られなきゃならないんだろうと。。表向きは親はにこにこしていてそれを知らないおじさんもにこにこしていましたがそれからは友達もおじさんもイベントがあっても呼ぶことはしなくなりました。こんな感じで上手くやれていたのも私が小学5年生手前位迄でした。その後は私も心が段々にすさんでいって閉ざしてにげてしまうのです。

 

今はもう1度再会できるならお礼と謝罪をちゃんと伝えたいですけれどもそれはもうどんなに願っても叶わないですね。気付いたときには時すでに遅しでしたね。皆さんも人との出会いは後悔しないでほしいと願います。